共同汽船

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2019年12月3日 (火) 10:53時点における田舎の西北 (トーク | 投稿記録)による版 (沿革)

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共同汽船株式会社(きょうどうきせん)は、かつて存在した海運会社で、兵庫県神戸市に本社を置いていた。明石海峡大橋開通時の1998年平成10年)4月5日に廃止となった。

本項には、同社の前身である阿波国共同汽船株式会社(あわのくにきょうどうきせん)の歴史についても概説する。

沿革

共同汽船株式会社は、1887年明治20年)9月徳島の藍商人等が共同出資して設立した海運会社阿波国共同汽船株式会社をその前身とし、1968年(昭和43年)に「共同汽船株式会社」に改称されたものである。「阿波国共同汽船」を設立した当時、大阪 - 徳島間の海運は大阪商船の独占状態にあったため運賃が高騰していた。当時の徳島の特産品であったを大阪に海輸して富を築いていた徳島の藍商人等はこれを嫌い、より適正な運賃で大阪へ運搬する手段として自前で海運業を起こして設立されたのが「阿波国共同汽船」であった。「阿波国共同汽船」が初めて投入した船舶は太陽丸(87トン)で、徳島 - 大阪航路に就航した。

「阿波国共同汽船」の当初の設立目的は「藍の適正価格での輸送」にあったが、それが一応の収束をみた後は「阿波国共同鉄道」を起業して徳島県内を吉野川沿いに横切る徳島線徳島駅小松島間に鉄道を敷設(現在の牟岐線徳島駅 - 中田駅間および、赤字路線として廃止された小松島線)、徳島の鉄道沿線と大阪・和歌山間を小松島港経由で結ぶ輸送経路の確立に大きく寄与した。なお、共同出資会社の「阿波国共同鉄道」は当時の鉄道行政機関であった鉄道院から敷設仮免許を受けた後、「阿波国共同汽船」に買収されている。「阿波国共同汽船」は、この徳島 - 小松島間鉄道完成前の徳島 - 小松島航路に第15共同丸(25トン)を就航させ、さらに徳島 - 小松島間の鉄道線開設後には第28共同丸(1,000トン)を就航させ、大阪 - 小松島 - 徳島ルートの輸送力を確保した。

なお、徳島 - 小松島間の鉄道路線は、1913年大正2年)4月20日の開業と同時に鉄道院に借上げられ、鉄道院が運営した。その後、1917年大正6年)9月1日付けで、鉄道路線は正式に国有化されることとなった。

その後、「阿波国共同汽船」は日本全国に航路を広げ、最盛期には北支航路および西鮮航路にも航路を有する一方、1923年(大正12年)の徳島繁栄組による阿摂航路開設や徳島急行商船による食事サービス競争などで競争は激化した。しかし戦時中には経済活動の統制を受け、他の海運業者と共同出資して関西汽船を設立して航路移管したり、ライバル会社であった「徳島繁栄組」と合併するなどして航路自体が統合整理されることとなった。

太平洋戦争終結後、「阿波国共同汽船」は戦時中に関西汽船へと運行移管していた阿摂航路の返還を要求して受諾される。その結果、大阪 - 小松島航路は当社あきつ丸(1,038トン)と関西汽船の太平丸(966トン)、おとわ丸(910トン)、山水丸(822トン)との共同運航、そして同航路大阪 - 徳島航路は当社あき丸(386トン)と関西汽船の金城丸との共同運航となる。

戦後の高度経済成長期には鉄道の電化に伴う高速化や、自動車の一般普及による小口輸送のシェアシフトにより貨客船は利用が低迷、当社は社名を「阿波国共同汽船」から「共同汽船」に改称する。また大阪 - 徳島航路、小松島航路を貨客船輸送からフェリー輸送に切り替えるなどフェリー輸送へとシフトし、さらに大阪 - 徳島航路(徳島阪神フェリー)にうらら丸(2,924トン)を、また大阪 - 小松島航路(小松島フェリー)にあきつ丸(2代)(3,831トン)およびびざん丸(4,097トン)を新造投入、さらに共正汽船と共同で和歌山深日港 - 徳島港間にフェリー航路(徳島フェリー)を開設するなど手を尽くしたが、航空機新幹線などの高速輸送網の発達や大鳴門橋瀬戸大橋の開通による陸路輸送の効率化に伴う利用率低下に歯止めを掛けられず、大阪 - 徳島航路を最後に撤退、会社も解散となった。

脚注

関連項目