南京大虐殺論争

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南京大虐殺論争(なんきんだいぎゃくさつろんそう)とは、1937年(和暦??年)から始まった日中戦争支那事変)初期に日本軍が行ったとされる「南京大虐殺」に関して、事件の存否、規模などを論点とした論争である。論争は日中関係を背景に政治的な影響を受け続け外交カードとしても利用された[1]

論争史[編集]

1971年まで[編集]

「南京大虐殺」は、東京裁判において日本と世界に大きな衝撃を与えた[2]が、それ以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではなかった[3]。専門的な研究は洞富雄『近代戦史の謎』(人物往来社 1967年)、五島広作毎日新聞記者)と下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社 1966年)がある程度であった(『南京作戦の真相』は、南京事件の存在自体を疑う否定論としては最も早い時期に単行本として出版されたものであったが、当時この本が注目されることはなかった)。

1971年から1982年まで[編集]

再び注目を集めるきっかけとなったのは、日中国交樹立直前の1971年(和暦??年)8月末より朝日新聞紙上に掲載された本多勝一記者の『中国の旅』という連載記事である。南京を含む中国各地での日本軍の残虐行為が精細に描写された記事であったが、この記事で当時「百人斬り競争」が大々的に報道されていたことが取り上げられた時、山本七平鈴木明の“百人斬りは虚構である”という主張から論争は始まった。鈴木明の『「南京大虐殺」のまぼろし』は事件を否定しない立場からの論考であったが、否定説の象徴とみなされるようになり、この書名に影響されて否定説・否定派を「まぼろし説」「まぼろし派」と呼ぶようになった[4]。1975年頃の論争は「「肯定派」と「否定派」、或いはあったとしても「大虐殺というほどではない」人々との間で激しく展開されていた[5]」。

1982年から1984年まで[編集]

三番目に大きく取り上げられるようになったのは、1982年(和暦??年)の教科書問題の時である。「検定で侵略を進出と書きなおさせた」という誤報(教科書誤報事件)をきっかけとして、日本の教科書における事件の記述が政治問題化した。日本政府は首相の訪中により政治決着させることを選んだが、ナショナリストの反発を招き、まぼろし派が支持を拡大した。まぼろし派の中心となったのは松井石根大将の秘書も務めたこともある、評論家・田中正明だった。また、家永三郎が起こした教科書検定をめぐる訴訟(家永教科書裁判)では南京大虐殺の記述を削除したことについて争われた。それを受ける格好で、洞・本多を始めジャーナリストや歴史研究者が集まって1984年(和暦??年)に南京事件調査研究会を発足。これにより大虐殺派が形成された。研究会は日中双方の資料や証言を照合して虐殺事件の全容の解明に乗り出した[6]

1984年から1997年まで[編集]

1984年(和暦??年)に入ると、新たな証言が得られるようになった。当時の兵士が事件について語りだしたのである。陸軍将校の親睦団体である偕行社は、機関紙『偕行』にて事件の証言を募集した。当初、偕行社は事件の否定を目指していたが、不法行為を示す多くの証言を集め、総括として中国人民への謝罪を示した。この頃、秦郁彦中間派が登場し、偕行社はこれに近い立場をとった。偕行社が収集した証言、史料は1988年(和暦??年)に『南京戦史』として刊行された[7]

1985年(和暦??年)にはまぼろし派がその論拠を失うことになった。板倉由明が 田中の著書『松井石根大将の陣中日記』の内容を陣中日誌の原本と比較した結果、田中が松井石根大将の陣中日誌を編纂する際に600箇所以上の変更ないし改竄を行い、自ら加筆した部分をもって南京事件がなかったことの根拠とする注釈を付記していたことを発見した。板倉は大虐殺には懐疑的な立場であったが「改竄は明らかに意図的なものであり弁解の余地はない」として田中を強く非難した。田中はのちに自著の後書きでこの件に触れ、加筆の大部分は誤字や仮名遣いの変更であったと弁明し、意図的な改竄を否定した[8][9]

秦は論争のありかたに危惧を抱いており、『南京事件』において次のように述べている。

このままだと、歴史的真実の究明はどこかに押しやられ、偏見や立場論が先走った泥仕合になってしまうおそれがある。虚実とりまぜた情報の洪水を整理しつつ、まず南京周辺で何が起こったのか、事実関係を確認したのち、原因と責任の所在を含め、見直し作業をしたい

秦郁彦 『南京事件』53頁(増補版の頁番号)、初出1986年

1997年以降[編集]

これまでこの論争はほぼ日本国内で起きていたが、アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』の登場により論争は国際的なものになった。大虐殺派と中国政府の公式見解にも対立が見られるようになった[10]

まぼろし派には東中野修道などが登場し、事件を否定するのではなく、違法性、残虐性の否定を主張するようになった[11]。否定説は1980年代に破綻したとして一般マスコミでは省みられなくなったが、社会主義・左派政党の衰退、自由主義史観の提唱、インターネットの幅広い普及などにともない、匿名掲示板などで話題となり再び登場する事となった。

論争史の参考文献[編集]

  1. 秦郁彦 (2007) 秦郁彦 [ 南京事件 「虐殺の構造」 ] 増補版 中公新書 中央公論新社 2007 978-4-12-190795-0 184頁
  2. 秦、前掲書。26頁
  3. 秦、前掲書。263頁―267頁
  4. 秦、前掲書。52頁、184頁、270頁
  5. 石井和夫(日中友好元軍人の会) (1987) 石井和夫(日中友好元軍人の会) [ 「南京大虐殺」を考える ] 中国研究月報 469 中国研究所 1987 3 0910-4348 46-49
  6. 秦、前掲書。52頁、272頁
  7. 秦、前掲書。53頁、275頁―279頁。
  8. 「松井石根大将『陣中日記』改竄の怪」(板倉由明)(「歴史と人物 1985年冬号」所収)
  9. 秦、前掲書。286頁―288頁。
  10. 秦、前掲書。291頁―295頁。
  11. 秦、前掲書。274頁―275頁。

主な見解[編集]

この論争での主な論点は、日本軍が犯したとされる虐殺の存否とその規模にある。その規模に対する見解は次のように大別される。

30万人以上[編集]

主に中国側の見解としてみられる。代表的な研究者は孫宅巍江蘇省社会科学院研究員)、高興祖南京大学教授)などが挙げられる。南京にある侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館や、台北市国軍歴史文物館[1]も同様の見解をもっている。

孫宅巍の研究によれば、独自の調査から、1,000人以上の大規模な集団虐殺数と、それ以外の集団虐殺数を割り出し、これらの調査結果と埋葬記録とを照らし合わせ、その数を27万4000人と推定する。さらにこれを、記録に残らないような虐殺や埋葬があったことを考慮し、30万以上と推計している。また、現在判明している埋葬数を加算すると40万以上になるが、記録の重複、戦死者が含まれること及び埋葬記録に残らない死体などを考慮し、30万以上と推計する。

十数万人以上[編集]

論争において肯定派・虐殺派と呼ばれる。ここでは肯定説に統一する。代表的な研究者は、南京事件調査研究会のメンバーである笠原十九司都留文科大学教授)、洞富雄早稲田大学教授)、藤原彰一橋大学教授)、吉田裕(一橋大学教授)、井上久士駿河台大学教授)、本多勝一(ジャーナリスト)、小野賢二(化学労働者)、渡辺春巳(弁護士)などが挙げられる。

笠原の研究によると、中国側史料から中国軍の総数を15万人と推計し、このうち虐殺された数を、中国側史料からは8万余人、日本軍の戦闘記録などから8~10万人以上と推計する。市民に対する虐殺は、ラーベの日記、埋葬記録、スマイス調査などから、最低限度を1~2万人と推計する。合計すると10万人以上もしくは20万人に近いかそれ以上となる可能性があると結論する。

4万人前後[編集]

一般的には中間派と呼ばれる。ここでは中間説とする。秦郁彦現代史家・元日本大学教授・法博)の研究として、『南京事件』(中公新書)にまとめられている。

秦の研究によると、中国軍の総数を日本軍の推定数と台湾の公刊戦史から10万人とし、日本側の戦闘記録・新聞記事などから戦死数5万3,900人、捕らわれて殺害された者3万人、生存捕虜1万0,500人、脱出成功者5,600人と推計する。このうち捕らえられてから殺害された3万(各部隊の戦闘記録から算出)を虐殺数とする。市民に対する虐殺は、スマイス調査による都市部・農村部の被害者総数に修正を加え2万3,000人とし、不法殺害の割合は1/2~1/3と判断し、虐殺数を8,000~1万2,000人と推計する。概数として市民と兵士の虐殺総数を3万8,000人~4万2,000人と結論する。

数千~2万[編集]

一般的に少虐殺派、過小虐殺などと呼ばれるが、中間派と呼ばれることもある。ここでは小虐殺説に統一する。代表的な研究者は『南京戦史』(偕行社)の編集に携わった畝本正己(元防衛大学校教授)、板倉由明(南京戦史編集委員・南京事件研究家)、原剛防衛研究所調査員)などの他、中村粲獨協大学教授)が挙げられる。

板倉自身は虐殺数30万人のみを否定する南京事件派と標榜している(著書に『本当はこうだった南京事件』(日本図書刊行会))。板倉の研究によると、中国軍総数を5万、そのうち戦死者数を1万5,000人、捕らわれて殺害された者を1万6,000人、生存捕虜を5,000人、脱出成功者を1万4,000人と推計する。その上で虐殺数を8,000人と推計する。市民に対する虐殺は、城内と江寧県を合わせた死者総数1万5,000人とし、このうち虐殺に該当するものを5,000人と推計する。兵士と市民の虐殺数の合計は1万3,000人となるが、これに幅を持たせて1~2万人と推計する。

虐殺否定説・まぼろし説[編集]

一般的に「否定派」、「まぼろし派」、「虐殺なかった派」などと呼ばれる。ここでは否定説に統一する。主な研究者は鈴木明(ノンフィクション作家)、田中正明 (元拓殖大学講師)、東中野修道亜細亜大学教授)、北村稔立命館大学教授)、冨澤繁信日本「南京」学会理事)、阿羅健一(近現代史研究家)、勝岡寛次明星大学戦後教育史研究センター)、渡部昇一上智大学名誉教授)、中川八洋筑波大学名誉教授)などが挙げられる。

東中野の研究によると、便衣兵ゲリラ兵)、投降兵の殺害については戦闘行為の延長であり国際法上合法であるとし虐殺に分類しない。日本兵による犯罪行為も若干はあったが大規模な市民殺害は当時の史料では確認できない。しかも、南京大虐殺があったとされる3ヶ月後には南京の人口が5万人増えているという記録があり、大規模な市民殺害があれば人口が増えるはずがないので、百人単位の虐殺もなかったとされる。埋葬記録などの死体数に関する資料は捏造・水増しであり、史料により確認できる死体は虐殺に該当しないと主張する。よって、虐殺に該当するような行為はほとんど無かったと主張する。

戦時国際法上合法説[編集]

事実の証明・確定について、多くの日記や証言等は十分に史料批判がなされていないとして安易に証拠価値を認めず、最早現在では完全な事実の証明は不可能としつつも、 当時のハーグ国際法を解釈することによって日本軍は合法的に処理したとし、虐殺に当たる行為は否定されると主張する説。主にネット上に見受けられる。 軍事目標主義(ハーグ25条)においては、南京城内は安全区も含め防守地域であり、この地域に無差別に攻撃をしたとしても合法だとする(一般市民の犠牲があった場合は、戦死に準じた扱いとする)。 にもかかわらず、日本軍は、安全区には無差別攻撃を仕掛けず、安全区に侵入した中国軍の便衣兵の個別の選別・摘出行為に出たと主張する。 また、便衣兵の摘出・処刑について、憲兵により摘出が行われている事実が認められ、この事実に上官の命令に基づいて処刑がなされているならば、日本軍は、裁判(軍律審判)を行っていると主張する。 南京事件の原因は、第二次上海事変を起こした蒋介石や、日本軍の降伏勧告を無視した唐生智、安全区に侵入した中国便衣兵、侵入を許した安全区委員会にあるとする。

主な論点[編集]

南京大虐殺論争では事件における虐殺数や規模を中心にさまざまな論点が争われる。主な論点を挙げると以下の通りとなる。

事件の期間[編集]

東京裁判では「日本軍の南京占領(1937年12月13日)から6週間」という判決を出しており南京大虐殺紀念館や日中両国の研究者もこれを事件の期間とするのが通例である。

肯定派の笠原十九司は「1937年12月4日 - 1938年3月28日4ヶ月」説を唱えている。また当初6週間としていた張も後に笠原説に同調するとともに、始期を「中国の学術界では12月の初めごろと考えております」と述べている。

地理的範囲[編集]

この論争での地理的概念は広い順序で示すと次の通りとなる。

南京行政区 
南京市と近郊6県
南京市 
城区と郷区
城区 
南京城と城外人口密集地である下関・水西門外・中華門外・通済門外
南京城 
城壁を境にした内部
安全区 
南京城内の中心から北西部にかけた一地区(面積3.86km²)

東京裁判検察側最終論告では「南京市とその周辺」となっている。笠原は、判決文にある「南京から二百中国里(約66マイル)のすべての部落は、大体同じような状態にあった」を根拠に南京行政区を指しているのではないかとしているが、前出の中国人研究者孫宅巍は1997年に東京で行われた南京大虐殺60年国際シンポジウムにおいて「私たちが言っている30万というのは、まわりの6県その他の地域を入れていない」と発言し、また東京裁判における犠牲者数の出所である紅卍字会と崇善堂による埋葬活動の範囲から南京行政区とする笠原説は資料に基づいたものとは到底言えず、数合わせのために期間および地理的範囲を拡大し定義を改竄しているとの批判が多い。

人口推移[編集]

否定説
日本軍による南京陥落の観測が強まる中、南京城内の安全区を管理していた南京安全区国際委員会が食料配給の試算のため、南京城内の人口調査を行った(この調査は食料問題という厳密性が要求される調査であり、当時安全区に居た民間人に加え、区外の民間人も全て安全区に避難してくることを想定していた)。
否定派はこの調査で委員会が南京人口を約20万人と認識していた事から「陥落時の南京の人口は20万人しかなく、30万人を虐殺することは不可能だ」とし、安全区外の住民については、「日本軍による南京攻略前に中国軍による堅壁清野作戦が行われたため、ほとんど存在しなかったはずだ」と主張している(南京防衛軍である中国側は、安全区以外にいる一般市民は、「漢奸(日本側のスパイ)」とみなすとの布令を発している)。
南京安全区国際委員会の事務局長であったルイス・S・C・スマイスが南京陥落の3ヶ月後に実施した戦争被害調査(スマイス報告)では南京の人口が25万人とされており、否定派は「仮に大規模な虐殺が行われていれば、20万を超える市民が、南京にとどまっていたり、周辺地域から流入することはありえないこと」として「陥落時20万人だった人口が、その後すぐに増加していることから、市民が虐殺の存在を認識していなかった」と主張している。
肯定説
日本国内で30万人を主張している肯定説は無いとした上で、中国側の主張する30万人には上海戦以降の軍人の犠牲者が入っており、単純に南京の人口と比較することは意味をなさないと主張している。また、陥落時20万人という人口数は、南京攻略戦が始まる前の予測値であり、陥落時の実測値ではないこと。攻略前の日本軍の展開により周辺地域から戦災避難者の流入は予想できる事であり、さらに堅壁清野作戦後も南京郊外で日本軍による食料の強制徴用が行われていた事から、実際には逃げ切れなかった多くの住民がいたと思われる事、日本軍に囲まれている状況下、南京国際委員会などが機能する城内の方がましではないかと考えた人々が、南京城内に多く残留していたと考えられるとも主張している。

虐殺の範囲[編集]

否定説、肯定説とも「虐殺」を国際法違反行為と定義づけているが、何が国際法違反行為に当たるかが争点となっている。

投降兵の殺害
戦闘中に降伏して投降してきた兵士を、受け入れずに殺害することについて見解が分かれる。否定説では違法ではあるがそれがあったとしても中国軍も行っていた為、お互い様と指摘している。肯定説は、ハーグ陸戦条約第23条第3項「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞へる敵を殺傷すること」を根拠に、投降兵殺害の違法性を指摘している。また、軍事作戦の遂行が最優先事項であるため、戦闘中において作戦遂行の妨げになる場合には投降を拒否しても合法であるとの指摘もある。
捕虜の殺害
一旦捕虜として受け入れたのちに殺害するケースについても見解が分かれている。否定説では、そもそも捕虜の資格がない者(後述)が大多数であり、捕虜であっても敵対行動があった場合の処刑は合法としている。肯定説は、ハーグ陸戦条約第4条「俘虜は、敵の政府の権内に属し、之を捕へたる個人又は部隊の権内に属することなし」や当時の慣習法、一般的な戦時国際法学者の見解などを根拠に、捕虜殺害の違法性を指摘している。捕虜の敵対行動に関しては、否定論と同様に処刑の合法性を否定はしていないが、否定説が主張するようなケースでの手続上の問題点や、そのような事実の存在に関して反論を主張している。
便衣兵の殺害
最も殺害数が多いと思われる、便衣兵の摘出と殺害についても見解が分かれる。
否定説はハーグ陸戦条約第1条の「交戦者資格の四条件」を満たさない便衣兵(いわゆるゲリラ兵の一種。民間人を巻き込む為同条約第23条第2項で禁止されている)は交戦者資格がない非合法戦闘員であって捕虜待遇を受ける資格がない(同条約第3条)と解釈する。また日本軍は民間人の中から便衣兵を識別し摘出しているが、その過程において誤って民間人を殺害したり、戦意を失い平服で逃亡しようとしていた兵士を殺害した場合があったとしても、戦意や兵器所持の識別は困難であり、そもそもその識別のために交戦者資格の四条件において特殊徽章着用や武器を公然と所持することが条件とされていることなどを根拠に、これらの被害の責任は、民間人を巻き込むおそれを省みず、平服を着用していた便衣兵の側にあると主張している。また中国側は最後まで降伏はしておらず、両国間で休戦の合意(ハーグ36・37条)もなされていないことの問題点も指摘する。
肯定説は、これらの処刑は南京が陥落して戦闘が終了した後に行われたものであり、戦闘行為とは見なすことが出来ないと指摘している。また、もう抗戦の意図はなく専ら逃亡目的で平服を着用していた兵士を便衣兵と見なして殺害したり、一般市民から敗残兵を摘出した際に、便衣兵が紛れている可能性があるとして識別の努力もせず殺害した場合等は虐殺にあたると主張している。
便衣兵に対する裁判
便衣兵の殺害に関して裁判が必要か否かで見解が分かれる。当時のハーグ陸戦条約を含む戦時国際法では便衣兵のような非合法戦闘員を想定していなかったのが一因である。
否定説は、便衣兵は交戦者資格がない非合法戦闘員であり裁判の必要はないと主張する。また南京戦では蒋介石をはじめ中国側指揮官逃亡のため、降伏や休戦などの明確な戦闘停止協約が結ばれておらず、南京陥落後も依然として交戦状態が続いていたため、便衣兵の殺傷は戦闘行為であり、処刑にはあたらないと主張する。
肯定説は、便衣兵を死刑として殺害するにはそうと認識する軍事裁判の手続きが必要であったから、裁判を経ずに殺害したということは、その殺害の正当性を証明するべき根拠がなく、違法行為であると主張する。
これに対し否定説からは、肯定説の要求する裁判とは軍律審判のことであり、驚くほど簡易な手続き(憲兵の取調べ調書のみ)で処分が決定できた(さらに即決・非公開・非対審)ことから、軍民の厳格な分離は裁判が行われていても不可能であるとして肯定派の批判には意味がなく、日本軍がこの簡易手続きを省略するのは考えられないと疑問を呈する指摘もある。

史料批判[編集]

肯定説・否定説ともに、反対説に対し、いずれの史料批判も学術的な妥当性が無く、その史料批判が恣意的であると反論している。また、加害側・被害側の証言や記録を一方的に取り上げ、自身の見解に都合の悪い史料に関しては、捏造・偽証というレッテルをはって切り捨てると主張している。

否定説は、虐殺の根拠とする史料には、埋葬記録が水増しされているなど捏造の疑いがある。政治宣伝でしかないものがある。矛盾した被害・加害者証言や写真記録などがあり、またその史料解釈が恣意的であるとしている。実際、朝日新聞(1984年8月4日大阪版夕刊 - 翌朝全国掲載)が「南京大虐殺の証拠写真」として掲載した生首写真が、中国軍が馬賊の首を切り落とした写真であることが判明し、記事中で虐殺に関わったとされた歩兵二十三連隊の戦友会「都城二十三連隊会」が朝日新聞に抗議して訴訟になったり(1986年1月に和解)[2]、南京市にある南京大虐殺記念館が南京事件と無関係であると指摘された写真3枚を撤去したと2008年に一部で報道されるなど[3]、確かに信憑性の疑わしい資料があり、そもそも南京大虐殺が史実であるのならば、なぜ捏造資料が必要なのかという声もある。

否定論者である松村俊夫は、被害者・李秀英について「証言のたびに内容がクルクル変わるのは、実体験でない証拠だろう」と著書に書き、名誉毀損に当たるとして民事裁判を1999年9月に起こされた(李秀英名誉毀損裁判)。東京地裁は、判決理由で「(松村には、李が)嘘を言ったと信じる相当の理由はなかった」と述べ、松村に150万円の支払いを命じた。その後、最高裁まで争われたが、2005年1月に上告棄却となり原告の勝訴が確定した。この裁判の判断を重視する論調もあるが、裁判所はあくまでも当事者の紛争解決機関であり、歴史的事実を認定してその事実を世間に対しても拘束させるものではない、という指摘もある。

残虐行為の動機[編集]

否定説は、「松井大将が12月9日に「平和開城の勧告文」を飛行機で散布し翌10日正午まで返答を待つなど、南京の軍民を保護しようと尽力したのに、組織的に残虐行為を行ったとするのは根本的に矛盾がある」と主張している。さらに、兵士の体力消耗と弾薬・燃料の浪費であること、サーベルなどで殺害するにしても武器を無駄に傷めることになり、日本軍にとって利益にならないことなどを理由に、日本軍に大虐殺を起こす合理的な動機は存在しないと主張している。

肯定説は、(1)敗残兵の処刑は組織的なものであり、命令があれば動機は必要ないこと、(2)補給(特に食糧の補給)を軽視して現地徴発を多用した結果、この徴発に伴って行われた殺害が多数存在したこと、(3)便衣兵戦術を採る中国軍とのゲリラ戦でかなりの死傷者が出ており、兵士の間で便衣兵への憎しみや恐れが転化して、民間人や捕虜・投降兵の殺害につながったこと、(4)「人を殺した経験がなければ一人前の軍人ではない」という歪んだ英雄主義があったことなどを指摘する。また、多数の予備役・後備役の戦線投入により、兵士の質が低下したことも原因の一つだと考えている。

物理的な「大量虐殺」の可能性について[編集]

否定説は、「当時南京に進軍した日本軍の武器弾薬の質・量などを検討すると、虐殺の実行は極めて困難になる」「大虐殺に要する時間、労力。虐殺が市外に及ぶならその範囲を考えると、大虐殺を行う合理性はおろか余力もない」と主張する。また「30万人もの虐殺があったとして、およそ18,000トンにおよぶ膨大な量の遺体はどこに消えてしまったのか」との疑問にも肯定説は答えていないとしている。

肯定説は、南京に進軍した日本軍が総勢20万人近くいること、各兵士が銃剣銃弾を持っていることを考慮すれば大量殺害は可能である。また、たとえ計画性が無くても、竹やりや素手でも大量虐殺は可能だと主張している。遺体の処理については、揚子江に流すという手段を指摘している。否定説はこれに対し、いずれも可能性を示すのみでありこれを示す資料が存在しない(河川への死体遺棄はあったと日本側の記録にもあるが、小規模である)と主張している要出典。また、東京裁判で「殺害20万」の根拠となった埋葬数についても、遺体15万以上が慈善団体により埋葬されたとなっているが、殺害が南京城区とその近郊を含む広大な地域で行われた可能性があると肯定説が主張していることと矛盾すると主張している。また、その後の調査で埋葬を行ったという慈善団体に活動実態がなかったとの指摘もある。

事件前後における日本軍の軍紀について[編集]

否定説は、南京攻略戦まで日本軍の軍紀は保たれており、そのことは従軍の外国人記者も証言しているとして、南京攻略戦時のみに虐殺を行ったというのは不自然であると主張している。

肯定説は、ティンパーリーの著作や本多勝一の取材によれば上海 - 南京間でも虐殺行為が行われていた事。一部の史料や参戦者の証言によれば上海上陸時から住民に対して殺害する命令が存在していたと主張している。

レイプ被害者の存否について[編集]

否定説は、多数の女性がレイプされたと言われていることに対して、被害者が出産したという記録が存在しない以上、彼女らの証言全てを信用することはできないと主張している。堕胎について、当時南京に取り残された人々は遠方に逃れる費用も無かった者であり、これらの者に堕胎費用が捻出できたとは考えられない。強姦致死についても、当時の埋葬記録を参考に否定している。

肯定説は、ベイツの手紙などにより、当時から被害者の堕胎は問題視されていた。中国での子どもの間引きの習慣、一般的なレイプの事件の証明の難しさなどを考慮すると多数起きたとされるレイプ事件の否定はできないと主張している。これに対し否定説からは、第二次世界大戦末期の赤軍によるドイツを中心とした被占領地の女性に対するレイプや、ベトナム戦争に従軍した韓国軍兵士による多数のベトナム人女性レイプによって生まれた多くの混血児が実在していることから、南京に限って堕胎の記録がない、一人の混血児やその子孫もいないというのは、無理のある主張であるとの意見がある。

プロパガンダ説[編集]

否定説では「中国はプロパガンダが巧みであり、欧米の国際世論を味方につけようと暗躍していた」としており、「南京事件は南京陥落後に中国政府が国際連盟で「南京で2万人の虐殺と数千の暴行があった」と演説したのが最初だが国際社会からは真剣に受け止められず非難決議もなかった。それが東京裁判で30万という数字に一気に飛躍したため一時注目を浴びたが、日中友好ムードであった1970 - 1980年代は全く沈静化していた。しかし、六四天安門事件以降の江沢民政権で大々的に再び宣伝活動に利用され、対日批判プロパガンダのネタとして日本政府から外交上譲歩を引き出すカードとして利用され続けている。」と主張している。また、反日愛国教育により一次資料の公開や検証のないまま大々的に南京大虐殺が喧伝されるようになり、現に南京に建設された大屠殺記念館では30万であるが現在では中国の主張する犠牲者数は40万人以上と10万人も増加しており、年を追うごとに増加する事は異常であり、一次資料の未公開や未検証、写真の捏造問題とも相まって南京大虐殺の信憑性を疑問視する傾向にさらに拍車をかけていると主張している。また大屠殺記念館の館長は日本のテレビ局要出典の取材で30万という数字が政治的な数字である事を認めている。

写真の真偽[編集]

否定説・東中野は、南京大虐殺を肯定する立場から記述されている書物等で掲載されている写真が捏造されたものであったと主張する。その上で、”南京大虐殺の証拠写真はすべて捏造である”と主張している。これについては南京大虐殺関連の写真を検証してきた「プロパガンダ写真研究所」も数多くの証拠写真を捏造写真と指摘している。

この主張に対して肯定説は、 (1) 今までの学術的な南京大虐殺の研究において、写真を根拠資料とするものはほとんどなく、その写真を「南京大虐殺の証拠写真」と主張すること自体がおかしい、 (2) 東中野の研究の根拠には主観的なものが多く、学術的な研究とは言い難い、 (3) 一部に問題があるという点を明らかにしただけで、すべての写真を否定することはできない、などの反論をしている。

陰謀説[編集]

否定説・東中野は、国民政府が、ティンパーリーやベイツなど外国人に依頼し、大虐殺を捏造したと主張する。その根拠として、台湾で発見したとする『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(1941年)やアメリカイェール大学で発見したとする新聞記事の切り抜きを挙げる。

これに対し肯定説は、 (1) 『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』からでは、ティンパーリーが国民政府の依頼を受けて記者活動を行ったことは証明できない、 (2) ティンパーリーの著作は、事件を伝える主要な部分は南京在住者の手記で構成されていることが確認されているので、その出自をもって捏造とすることは論理的に不可能である、 (3) ベイツの国民党顧問説の根拠である新聞記事は出所がまったく不明であり、他の史料と比べても内容の信憑性に欠けると批判している。

当時の報道についての議論[編集]

否定派の見解では、中国側が国際連盟において「南京における日本軍の暴虐」(犠牲者は2万人としている)を演説しても非難決議が出されなかったことを挙げて、「南京大虐殺」は当時の国際社会でほとんど話題になっていなかったと主張している(日本軍が中国への渡洋爆撃を行った際には国際連盟が全会一致で非難決議をしている)。

肯定派は「国際連盟では話題にならなかったが当時の欧米メディアは虐殺を伝えていた」と反論している。日本軍の南京入城後『ニューヨークタイムズ』などでは「南京の暴虐」などとして取り上げられ、また日本の外交官宛にイギリス人外交官が「市民への虐殺被害」を外電で報告しており、日本政府(もしくは軍部)は早い段階でこの事件を認知していたのではないかとしている。

否定派はこれに対し「南京の欧米人記者は報道はしていたがその情報源はほぼ伝聞によるもので信憑性が乏しい」と主張している。南京の欧米人記者は日本軍の南京入城後(12月15日と16日)に戦艦で南京を脱出しており、スティール、ダーディン両記者の記事のベースは国際委員会のベイツ教授が「さまざまな特派員に利用してもらおうと(ベイツの手紙より)」手渡したティンパーリ編「戦争とは何か」ではないかとの指摘がある。「戦争とは何か」の記述の多くが伝聞に基づくものであって、実際、南京陥落後の12月13~15日は日本軍は掃討戦中であり、国際委員会に届けられた殺人事件もそれが全てではないにせよ目撃者のないものが5件のみであり(国際委員会編「市民重大被害報告」)、スティールら外国人記者が見たという殺人事件の信憑性を疑う声もある。また日本の外交官宛の「虐殺の外電」についても同様に「伝聞が情報源であり日本政府(もしくは軍部)は誤情報を報告されていたのではないか」としている[4]


学者・研究者の反応[編集]

肯定論者は、完全否定説はほとんどの歴史家・専門の歴史研究者の間では受け入れられる傾向はないと主張している。

否定論者は、30万という大量虐殺説はほとんどの歴史家・専門の歴史研究者の間では受け入れられる傾向はないと主張している。

日本の研究者で、30万人説を主張したり、時代によって変遷する中国政府の公式発表を鵜呑みにしてその度に自説を変更している研究者はいない。多くの研究者は百から十数万の虐殺者数を推測しているがその差は激しく、仮に少なめに推測するならばそれは歴史上あえて取り沙汰するほどの規模ではなく、多めに推測するならば注目すべき事件となり、その意義も変わってくる。

論争に対する識者からの批判[編集]

以上のような日本のおける南京大虐殺論争に対して、各方面の識者から批判がなされている。

  • 心理学者の中山治は、自著『日本人はなぜ多重人格なのか』の中で、「(虐殺肯定派と否定派が)互いに誹謗中傷、揚げ足の取り合いをし、ドロ試合を繰り広げている。事実をしっかり確認するどころの騒ぎではなくなっているのである。こうなったら残念ながら収拾が付かない。」と論評[5]
  • 政治学者の藤原帰一は、自著『戦争を記憶する――広島・ホロコーストと現在』の中において、「(南京大虐殺論争が)生産的な形を取ることはなかった。論争当事者が自分の判断については疑いを持たず、相手の判断を基本的に信用しないため、自分の偏見を棚に上げて、相手の偏見を暴露するという形でしか、この議論は進みようがなかったからである。(中略)新たな認識を生むというよりは、偏見の補強しか招いていない。」と論評[6]
  • SF作家でありと学会会長の山本弘は自身のホームページにて、この論争は学術論争ではなくイデオロギー論争であり、左寄りの論者(30万人派、虐殺派)は、中国人の犠牲者数を多くしたいために、「南京」「虐殺」の範囲を広くし、右寄りの論者(少数派、まぼろし派)は、中国人の犠牲者数を少なくしたい(なかったことにしたい)ために「南京」「虐殺」の範囲を狭くしている。論争の当事者達は歴史の真実を知りたいのではなく、自分たちの信条を正当化したいだけである、と論評している[7]

関連項目[編集]

資料[編集]

「松井石根大将『陣中日記』改竄の怪」(板倉由明)(「歴史と人物 1985年冬号」所収)

脚注[編集]

  1. 国軍歴史文物館の常設展説明より。中華民国国軍の軍事博物館、「凡是被認為有抗日嫌疑者,立遭殺害。此一大規模劫掠、姦淫、屠殺行動,計死傷中國軍民竟高達30餘萬人。」と記述している
  2. 田辺敏雄による「朝日報道 都城23連隊と南京虐殺」、松尾一郎が運営する電脳日本の歴史研究会のサイトにある「朝日新聞」の犯罪を参照。
  3. 南京大虐殺記念館、信憑性乏しい写真3枚を撤去 - MSN産経ニュース (2008年12月17日)による。ただし、この内容を中国側が否定したとする報道、南京大虐殺記念館が産経新聞に反発「写真撤去はない」- サーチナ (2008年12月20日)もある。
  4. 東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』
  5. 中山治『日本人はなぜ多重人格なのか』(洋泉社)p142
  6. 藤原帰一『戦争を記憶する――広島・ホロコーストと現在』(講談社)p32
  7. 目からウロコの南京大虐殺論争

外部リンク[編集]

肯定派系リンク
否定派系リンク

日本語以外の言語で書かれている外部リンク[編集]